礼拝堂入り口にもどる

いちじく桑の木に登る

宗教主任  石垣 雅子

聖書の言葉

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

日本聖書協会 新共同訳 新約聖書ルカによる福音書19章5節

i

人間には五つの感覚があると言われています。すなわち、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚です。見ること、聞くこと、匂いを嗅ぐこと、触ること、そして味わうことです。そのうち視覚(見ること)から入ってくる情報量が一番多くて、約87パーセントなのだそうです。見るということで、わたしたちは多くの情報を得ていることがわかります。でも、見る以外の感覚もとても大事です。生徒の皆さんは、わたしたち教師から「話を聞きなさい」とよく言われていますね。聞くということによって7パーセントの情報を得ているそうです。話が聞けないと7パーセントの情報が自分の中に入ってこないことになるわけです。もちろん、それぞれに個人差があるとは思います。そして、例えば、視覚障がい者の方は見ることができない故に、その他の感覚が他人よりも研ぎ澄まされるとも言われています。

さて、今日読みました聖書に登場しているのはザアカイという人です。この人はエリコという町に住んでいる徴税人の頭で金持ちでした。イエスの時代、徴税人とはローマ帝国への税金を集める仕事をしていました。ユダヤ人にとって自分たちの大嫌いなローマ帝国のために仕事をしている徴税人は「魂をローマに売り渡した者」とか「売国奴」と言われ、嫌われていました。加えて、あくどいこともしていたようです。恐喝したり、詐欺まがいのことをしたりということもあったのでしょう。汚れた仕事をしていると言われ馬鹿にされ、差別されていたのです。当時の絶対の決まりである律法を守れない「罪人」であると思われていたのです。そんなザアカイがイエスと出会う。そして変わる。とてもわかりやすいお話です。

3節に、こうあります。《イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。》ザアカイはイエスのことが一目見たかったのだと書いてあります。《それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った》のです。ザアカイはイエスが見たかったのです。アイドルの追っかけと同じです。「ああ、イエスって人はこんな人なんだな」と見て、それで満足しようとしたのです。それなのに、見ることすらできない。たくさんの人々がイエスを見ようと集まっていたからです。せっかく行ったのに、見られないのは悔しいし残念だと考えたのでしょう。ザアカイはいちじく桑の木に登ったわけです。イエスがそこを通り過ぎようとしていたからです。そのとき、ザアカイのみならずまわりの人々すら思いもしなかった出来事が起こります。イエスからザアカイに声がかけられるのです。《「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」》と。ザアカイは、声をかけられ、いちじく桑の木から降りて来てきます。彼は貯めていた財産の半分を貧しい人に施し、だまし取ったものは四倍にして返すと宣言するのです。

ii

今日わたしが注目するのは、見ると聞くということです。視覚と聴覚のことです。見て、それで良いとしようとしたザアカイに声をかけたイエス。情報量としては、見るが87パーセントで、聞くが7パーセントです。しかし、皆さんはわかりますね。ザアカイを変化させたのは、イエスを見たことだったでしょうか。それとも、イエスの声を聞いたことでしょうか。見たとしても、通り過ぎただけだったらザアカイは何も変化していないはずです。わかりますね。《「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」》とイエスから声をかけられることで、ザアカイは変わるのです。財産を施し、だましたものを返すと言ってしまうのです。イエスからの声をかけられたこと、イエスの言葉を聞いたことが、ザアカイを変化させたのです。

ザアカイはお金はあったけれども、泊まりに来てくれるような友達のいない寂しい生活をしていたのでしょう。まわりの人々の様子を見て、うらやましいと思っていたのかもしれません。自分に話しかけてくれる人はいない。聞こえてくるのは悪口だけだと考えていたのかもしれません。「どうせ自分なんて」とか「だったら勝手にやる」とか、そのように思っていたのかもしれません。一人であるさびしさを抱えながら、友達ができないから仕方ないのだとどこかであきらめて、このまま自分は変われないのだと冷めた目で自分自身をまわりを見つめていたのかものしれないと思います。でも、見ることでは変わらない。たくさんの情報は入ってくるかもしれないけれど、自らを変えてくれるきっかけにはならないのです。

そのようなとき、ザアカイはイエスから言葉をかけられました。《「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」》と。考えてみると、たいした言葉ではないです。が、ザアカイにとってはお金よりももっともっと欲しいものが与えられた瞬間だったのではないでしょうか。何かがはじけるように、こりかたまっていたものが溶けていくような瞬間だったのではないでしょうか。

わたしは、わたしたちが生きていくということはこのザアカイの出会いのようなことが起こる不思議な出来事だと思っています。わたしたちが変わるきっかけは与えられるのです。それは何気ない一言であることが多いのかもしれません。でも、必ずあります。わたし自身のこれまでの経験としてもそうでした。自分を良い方向へと導いてくれる何かが入った言葉、自分を励まして支えてくれようとする何かが入った言葉が、わたしたちの聴覚に入ってくることがあるのです。こうでなければならないとか、こうあるべきだとかいうこだわりを溶かしてく言葉です。わたしたちをより良い方向へと変える、そのきっかけを与える言葉です。その言葉を聞ける耳があるかどうか、わたしたちは問われるのだと思います。

最後に、ザアカイがどこでイエスの言葉を聞いたのかを考えて下さい。いちじく桑の木の上です。ただ何となくイエスの姿を見に行って、見えないから仕方ないとあきらめて帰っていたら、ザアカイはイエスに出会えていません。ということは、いちじく桑の木に登るということをザアカイが自分自身でしたからこそ、イエスに出会え、イエスから声がかけられるということです。そのとき自分のできることをしたからこそ、ザアカイはイエスの言葉を聞くことができたのです。そして、良い方向へと変わることができたのです。皆さんは、それぞれ、良い方向へ進んで行こうとしている人々だと信じます。イエスから声をかけられるザアカイになって下さい。自分でいちじく桑の木に登って、自分の耳でイエスの声を聞いて下さい。そして、聞くことによって、今よりもっと良い自分になるようと努力して下さい。(3月13日 中学卒業礼拝)

礼拝堂入り口にもどる
弘前学院聖愛中学高等学校
http://www.seiai.ed.jp/