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宝物

宗教主任  安達正希

〜聖書の言葉〜

わたしの目にあなたは価(アタイ)高く、貴く
わたしはあなたを愛し
あなたの身代わりとして人を与え
国々をあなたの魂の代わりとする。
恐れるな、わたしはあなたと共にいる。

旧約聖書 イザヤ書43章4〜5節

i

この夏、藤田栄一先生(理科)のアドヴァイスを頂いて、ある建物を見に行きました。その建物は、弘前市の中心部・弘前郵便局の隣にあります。三階建て+屋上付きの古くなった建物は、比較的新しい建物に挟まれる形でひっそりと建っています。その建物は、30年以上前、聖愛中学高等学校が坂本町にあった時代に校舎として使用されていたもので、当時の面影を遺す唯一の建物だそうです。藤田栄一先生のお話の後、その建物をよく見ると、学校独特の大きな時計が外壁に掛かっていることもあり、この建物がかつて校舎であったことが分かります。古い校舎の前に立つと、生徒の声が聞こえて来る気もします。

古い校舎の存在を知った日以来、昨日も弘前教会の帰りに通ったのですが、その道を自転車で通るのが不思議と楽しくなりました。それまでその道を何度も通っていたのですが、普通であれば目に留まらないその建物が、今の私にはとても大切なものに思えるのです。勿論、私は、その校舎に思い出はありません。しかし、その古くなった建物に、弘前学院の先達たちの思いや学院の歴史が込められ、とても大切なものに思えるからです。

他人から見たら大したものではないのに、私にとっては、とても大切なものであったりする、そのようなことが一つはあるかと思います。例えば、先程の古い校舎もそうですが、恋人からもらった物などには、他でもない私にとっては特別な思いをやはり持つことでしょう。

それを、私たちは、「宝物」と呼びます。

ii

聖書は、「あなたは神様の宝物である」と語ります。今日の聖書には、こう書かれています。「わたしの目にあなたは価(アタイ)高く、貴く、わたしはあなたを愛している」、と。「わたし」とは、神様のことを指しています。ですから、言い換えますと、「神様の目に、あなた方一人一人は貴い存在なのだ」ということです。

聖書に登場するイスラエルの民は、約40年もの間、砂漠・荒野を旅しました。奴隷であったエジプトの地を離れ、祖先たちがかつて過ごした安住の地カナンに戻るためです。40年さまよった砂漠や荒野は、見渡す限り砂漠であり岩山なのですから、行けども行けども似た景色が続き、単調な生活を送りました。砂漠の中では、自分が今どこにいて、どこへ向かっているのか、果たして目標・目指す地に本当に向かっているかどうか、確認する方法がないのですから、しばしば、今の状況に対する疑い・むなしさに襲われたようです。

歴史を見ますと、この後、イスラエルの民は、さらにバビロン捕囚というものを経験しました。強制的に外国に連れて行かれ、再び奴隷となりました。

イスラエルの民は、喜びよりも苦しみや辛さ疑いの多いその歩みの中、「自分は一体何者なのか」といったことを考え、更に苦しみ、悲しむことが多かったようです。そんな時に、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」との言葉、一人一人の人間に目を留めて下さる神様の祝福の言葉を聴くのです。

III

私たちは、当然のことながら、この人間世界を歩んでいます。しかし、時たま、もしくは頻繁に、「生きにくさ」を感じるのではないでしょうか。例えば、私たちは、常に競争にさらされております。ともすると、自分に与えられている賜物を発見し、自分を認識・再確認したり、自分を成長させるはずの本来は良き競争でさえ、単なる他人との比較や、単に相手を蹴落とすだけのものへと変化してしまいます。その中で、私たちは、自分の存在を社会に埋没させ、この世的・人間的価値観で自分を判断し、喜び満足したり、一方「自分はだめな人間なんだ」と悲しんだり、むなしさを感じたりするかもしれません。

その様な時に、「神様の目にあなたの存在は価高く、貴い。恐れるな。神様はあなたと共にいる」との言葉を内に聴きつつ、今朝もいのちが与えられたことに感謝し、一人一人が自分を見つめ、畏れと喜びを持ち、歩んでいきたいと思います。 お祈りします。

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弘前学院聖愛高等学校
http://www.seiai.ed.jp/