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8時15分の時計−平和を考える−

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

新約聖書 マタイによる福音書 5章9節


I

 皆さんは腕時計を持っていますか。今、していますか。わたしは愛用の腕時計をしています。ちょっとおしゃれな人なら、もしかすると何個か持っていてその日の気分によって変えているのかもしれません。あるいは、腕時計をするのはどうも嫌いなので持ってはいるけれどしないことが多いという人もいるかもしれません。でも、している、しないにかかわらず、わたしたちは何らかのかたちで時計から時間を知り、時間を確認しながら毎日を過ごしているはずです。
 早く時間がすぎないものかなどと考えながら、じっと時計を眺めていることもあるかもしれません。少し時間が進んでいるとか遅れているとかあるのかもしれませんが、時計はたえず動いて時間を刻み、わたしたちに今の時刻を教えてくれます。今のわたしたちの生活は時計というものを抜きにしては考えられません。

II

 先日、わたしは広島へ行ってきました。広島の原爆資料館というところで、8時15分でとまってしまった腕時計を見ました。この腕時計が何故時間を止めたのか、それは言うまでもありません。今から55年ほど前の8月6日、8時15分に広島に落とされた原子爆弾のせいです。この一発の原爆のために、10数万の人が命を落とし、たくさんの建物が壊れたり燃えたりしました。原爆資料館にはそれを伝えるために色々なものが展示されているわけですが、わたしはこの8時15分で時間を止めてしまった腕時計が一番印象的だったのです。
 この腕時計が時を止めてしまったのは、時計自身の理由ではありません。電池がなくなったとか寿命がきて壊れたとか、そういうことではないのです。原爆という暴力的な力、外からの強制的な力によって壊れてしまったということなのです。もっと言えば、戦争という当時逆らうことのことのできなかった圧倒的な力によって壊されたわけです。以来55年の間、8時15分で時をとめてしまったままです。本来の目的、すなわち時間を刻むことのできない時計になってしまったわけです。そして、これから先も動き出すことはないでしょう。

III

 ということは、一発の原爆はこの時計の持ち主のそれから先の時間も奪ってしまったということです。時計が8時15分でとめられた。持ち主の時間も1945年8月6日の8時15分でとまってしまったということなのだと思います。そういうことを望んだわけではないのに、むしろ望まなかったのに、無理やりに時間をとめられてしまったということなのです。
 わたしは、戦争、そして原爆とは生きている人の時間を無理やりにとめてしまうことでもあるんだと考えさせられました。多くの人々が、これからこう生きていきたいとかいう、夢や希望をも打ち砕いて、そこから先の時間を空白にしてしまうことなのだと思わされたわけです。
 わたしたちの時計は幸いなことに今動いています。そして、わたしたちは今生きています。それぞれに夢や希望があり、未来があるのです。ひとりひとりの夢や希望を打ち砕き、未来を奪い去っていくようなことがおこってはならないのだと思います。物言わぬ腕時計を見て、わたしはそんなことを考えました。

 

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弘前学院聖愛高等学校
http://www.seiai.ed.jp/