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追いはぎにあったわたしと

通りがかったイエス

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

 そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

新約聖書 ルカによる福音書10章37節


I

 今日の聖書は愛についての箇所(※ルカ10章25−37章)です。イエスのもとに律法学者やファリサイ派といった当時のエリートの人がやって来て、「何をしたら永遠の生命を受けることができるか」と聞きました。それに対して、イエスは子どもでもわかるようなやさしいたとえ話をした。これが“善きサマリア人のたとえ”と呼ばれている物語です。
 話の内容はこうです。ひとりの旅人がエルサレムからエリコへむかう旅の途中で追いはぎに襲われ、半殺しの状態にされた。道に転がされ、うなっていたわけです。たまたま祭司が通りかかった。けれど、知らんぷりで通り過ぎてしまった。レビ人(下っ端の祭司)も通っていったけれど、見て見ぬふりだった。ところが三人目に通りかかったサマリア人は倒れていた旅人を助けたというのです。イエスは「この三人のうち、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったか」とたずねました。答えは簡単です。サマリア人だということは誰にでもわかることです。

II

 この話自体はとてもわかりやすい話です。しかし、この話にこめられたものはとても重たいし深いものだと思います。わたしは、この中のサマリア人とはイエスその人のことではないかと思うのです。そして、追いはぎに襲われて半殺しの状態で倒れている人とはわたしたちなのではないでしょうか。もう立ち上がることもできないほどに傷ついて死にかけているわたしに、近寄ってきて、手をさしのべて助け起こし、ロバにのせて宿屋へ連れていき、介抱してくれる。もはやこれまでというときに、どうすることもできないというわたしを助けてくれるのはイエスなんだということです。
 さらに、イエスはわたしたちに「そうしなさい」と言う以前に、その生涯を通して具体的に行っていったのだと思います。律法学者と議論して相手を打ち負かすような立派な論理でもって「愛することとはこれこれしかじかだ」と説明していくのではない。具体的なかかわりあいをもって、今困っている人、今傷ついている人、今倒れている人に自分の手をさしのべて介抱する。そういうことを行うことこそが愛なんだし、イエスは生涯を通して実践していったのだと思うのです。このサマリア人とはイエス自身の生き方だったのです。

III

 このことは「人間はひとりひとり大事なんです」とかいうタテマエやオダイモクではありません。「愛とはわたしたちにとって欠かすことのできないものです」とかいう言葉ではありません。そういうものがむなしくなってしまう、本当に具体的な行為です。まさに自分の身体をはって、自分の隣人のために生きるということです。その結果としてイエスは最後には十字架につけられて、無残に殺されていくわけです。
 イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と語っておられます。そう言われても、なかなかできないのです。とてもできないのです。けれども、できないとあきらめてしまうのでは駄目だと思います。わたしたちにとって身体をはる愛とはどういうことなのでしょうか。一体何ができるのでしょうか。イエスはそれぞれに問いかけているのだと思います。その問いかけに誠実に答えたいと願うものです。
 

 

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弘前学院聖愛高等学校
http://www.seiai.ed.jp/