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思いこみからの解放

宗教主任 石 垣 雅 子

〜聖書の言葉〜

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

新約聖書、テサロニケの信徒への手紙5章16−18節


I

 今年度も1年生の半分のクラスの生活教室が終わりました。生徒を生活教室に連れていくとこういう感想が出ます。「来る前は嫌だったけど、来てみたら予想していたよりずっと楽しかった」。どうせ楽しくなんかないんだろうけど、学校の行事だし仕方がないから来てみたんだといようなのが彼女たちの本音なのでしょう。その本音が終わる頃になると、「予想していたよりも楽しかった」という言葉になって表れるのだろうと思うのです。しかし、その言葉を聞くとわたしは少し腹が立ちます。一体どんなふうに予想をしていたんだと少し腹が立つわけです。けれども、その言葉の中に彼女たちなりの先入観や思いこみがあるんだなあと思うわけです。
 この先入観や思いこみは何も生活教室に行く生徒のことだけではありません。私たちは誰でもそういうところがあります。私たち人間は毎日様々な先入観や思いこみに支配されて生活しているのではないでしょうか。これはこうなっているものだとか、あれはこういうふうに違いないとかいう先入観や思いこみによって様々なものを判断してしまっていることが多いのではないでしょうか。そして、その先入観や思いこみから少しでもずれている物事や事柄に出会うと、相手のことを許すことができないことがあるものです。

II

 しかし、それは時々私たちをとても不自由にしてしまいます。自分で自分自身を縛りつけ、こうでなければならないとか、こうあるべきだという決められた枠の中に閉じこもってしまうことにつながるからです。自分が絶対だと思って、自分の価値観の上にあぐらをかいて座っていることになってしまうのです。私たちの生きているこの世の中は多様な価値観の中で揺れ動いている一面を持っています。その中で、一体何が正しいのか何が間違っているのか迷いながら生きていかなければならないのが私たちの人生のはずです。たえず自分を問われながら、そして自分自身問いながら生きていかなければならないはずなのです。

III

 自分自身を縛りつけている先入観や思いこみから自由になるためにはどうすればいいのか。わたし自身わかりません。ひとつだけ言えるのは、様々な事柄や色々な人との出会いは縛りを解き放ってくれるきっかけとなり得ることなのではないかということです。先入観や思いこみを全く持たないで生活することは無理です。けれども、出会いを避けて自分の枠に閉じこもってしまうのでは先入観や思いこみから決して解放されることはないでしょう。私たちはそれぞれ先入観や思いこみから少しでも解放されたいと思います。そして、これからも様々なものと、色々な人と新たに出会い続けていきたいと願うのです。私たちに新しいものとの出会いを与えてくれるのは神です。出会いを与えてくれる神に感謝して、喜びを持って生活していきたいと思います。

 

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弘前学院聖愛高等学校
http://www.seiai.ed.jp/